アスペおばさん

40才でアスペルガー・ADHDと診断されたおばさんのリアルなブログ

未来のミライ感想

 

夏休みキッズと暑気を避けてできるだけ遅いレイトショーで未来のミライを観てきた。

10%ほどしか席が埋まっていなくてストレスなく観れた。

8月ごろはレイトショーでも混んでるだろうから、早めに行って正解。

 

個人の感想です。うろ覚えだったり、間違ったりしているかもしれません。

ネタバレを含みます。

 

 

 

 

全体としてはとてもよかった。絵が本当に美しい。背景に目を何度も奪われた。ストーリーも中だるみを感じさせない素晴らしい作品。今何分ぐらい経ったかを頻繁に気にする人間として言わせてもらうと、かなりのあっという間レベル。

 

現在の未来ちゃんと中学生の未来ちゃんがすれ違うシーンも物語の説明としてもエピソードとしてもとても分かりやすくて、未来ちゃんの好きな男の子が本当に恰好良くて笑った。

 

 くんちゃんに感情移入して涙がでそうになることも。

公園でお父さんが未来ちゃんをあやすのにかかり切りになって、くんちゃんのヘルプに全く気付いてくれないシーン。中学生の未来ちゃんに自分はお母さんからもお父さんからも可愛いと思ってもらえていないと泣くシーン。長女、長男あるあるで全世界のこういう状況の子供たちをいたわりたくなる。

 

小ネタはそれぞれ面白かったし、私の知らないネタのオマージュもあったのではと思わせるが、知らなくても楽しめた。

お父さんに気づかれず勺を取ろうとするシーン、架空の東京駅の迷子(落とし物?)案内の駅員さんのくだりなど。

ちなみにこの映画で一番私が好きなのがこの駅員さんだ。素敵な声だったのでだれか知りたかったけどスタッフロールでは見つけられなかった。

 

他の制作物と比べると格段にジェンダーバイアスが少ないことも加えておきたい。細田監督はかなりニュートラルな考え方なのだと感じる。

残念な監督なら胸を強調したり、スカートの中を故意に見せようとしたりするが、この映画ではおなかが少し見える程度。*1配慮されているのだろうと感じた。

 

ただ、気になって楽しめなかったことも多々あるので覚えているところを書き留めておこうと思う。

 

これは、くんちゃんの成長の物語で、くんちゃんを中心に廻っている映画だという事はわかる。けど難癖かもしれないけど、男の子に都合がいいなという感じを受けた。言い換えると主人公は子供ではなく、男の子供だということ。 

 

それと比べて、話の主人公ではないからしょうがないのか、ミライちゃん(中学生の未来ちゃん)は気の毒だと感じた。子供のくんちゃんを導くという性質上仕方ないけど、メタと母性と性欲対象を混在させているというか。

 

何度も書くけど、この作品は本当に、かなり、すごくニュートラルな(ジェンダーバイアスがかかっていない)作品だ。「君の名は。」の方が何百倍もその点ではひどかった。

 

でも、くんちゃんをメインで救うのが “中学生の制服を着た妹(可愛い)” なのはビジュアル的にメインターゲットである男性を意識したものだろうし、この映画の脚本上、中学生はまだまだ悩み多き子供であるはずなのに、子供のお兄ちゃんをナビゲートする “わかってる” キャラクターの役割を負っている。

 

中学生の女の子だなぁと感じさせる描写は、好きな男子の後ろを顔を赤らめて見つめて歩く “恋する女の子” シーンと、 “婚期が遅れるのが嫌” で雛人形を片付けるために現れた登場シーンだ。女子ってこんなもので済まされた感が否めない。

せっかくお母さんが産休明け早くから働いて、フリーの建築家として家で働いているお父さんが家事と育児をするという現代の中では進んでいる設定を作っているのにも関わらず、このジェンダーバイアスに引っかかる迷信を女の子の可愛らしい恋心を表すために使ってしまっている点も残念。監督がジェンダー問題を何も考えてないという事を浮き彫りにしていると感じる。

 

手のあざについてもほぼスルー。上映時間の都合上カットされたのかもしれないが。

 

最後の大きくなったお兄ちゃん(高校生?のくんちゃん)のシーンで、お兄ちゃんは十分に思春期をこじらせた不機嫌さなのに対し、(少しは生の女子中学生らしさを出してもいいと思うのだが)ここでもメタい方のミライちゃんしか出てこない。

 

お父さんは一人目のくんちゃんが生まれた時、育児から逃げるために仕事に没頭し、なのにやたらとお母さんの機嫌を伺っていた。このことが、この映画の中では重く受け止められていないこと。お母さんはそのことについて「男の人って赤ちゃんに興味がないんだって思ってた」という感想の言葉ひとつで終わらせていたが、リアルな当事者だったら相当な感情が渦巻くだろう。本筋から逸れるから省いたという理由も考えられるが的から外れていると思う。育児に不参加なことは、赤ちゃんに興味があるないの問題ではない。人として、夫婦として向き合うことを逃げた上、相当な負担を相手に1年以上強いていることになる。それをされたお母さんが「赤ちゃんに興味がない」という言葉で済ますのはピント外れにも程があると思う。割と勝手な男性視点でこの映画は作られているのだと感じた。

 

お父さんが育児に奮闘するシーンは本当に頑張っていて涙ぐましいもので優しくて素敵だと思った。だから余計に上の会話が、脚本自体が根本を理解していないんだと脱力させる。細田監督が確信犯でそう作ってるのかもしれないが。

 

ひいおじいちゃん。個人的には格好良くてすごく好き。二番目に好きな人物。けど昔ながらの大きな父性の強調というか、男性=強い、機械が得意を踏襲しすぎていると感じる。乗せてもらってるバイクから振り返って見上げる強い男性。女性である私以上に男性が好物な描写な気がする。「うおおお!かっけぇ!」と「いつかこの立場に自分がなりたい!」の二重の意味で。

「男たるもの」「男なら」「男は黙って」製作所のガソリンのようなもの。

こういうのをメディアで刷り込まれて、男女ともにジェンダーバイアスがかかっていくと思う。「君の名は。」でも強く感じた。監督の無自覚な加担。

 

一番かわいそうだと思ったのはゆっこだ。

“くんちゃんが不思議な現象に遭う” の導入部分に利用される “お母さん、お父さんの愛情が全てくんちゃんの誕生によって奪われた” 話。

くんちゃんのおかげでごはんが特売品じゃなくなって報われたように見えたものの、それだけで済まされる話ではない。その後、ゆっこに家族が優しくなるシーンが特になくて何だか救いがない。

ラスト近くの家に生えてる木のインデックスを見ていくシーンで、幼いゆっこがお母さんと離れ離れになるシーンも、人間に都合よく涙を誘う場面に作られてるようにしか感じられない。犬なんか使えるシーンだけ使って、便利なときにヒト化させて後はポイ。私が良いと思う映画は端役の物語も丁寧に描いている。

 

未来ちゃんの手のあざ、ゆっこの愛情喪失、お母さんの「赤ちゃんに興味ないんだって思ってた」発言などに共通するのは、物語を成立させるために引っ張ってきた深みの無いご都合主義だ。ちゃんと回収してくれれば深みのある話になるはずが、真ん中のくんちゃん成長物語ありきで話を作りすぎている。他がおろそかになっていると感じる。監督の仕事として大切なのは映画全編に愛情深いまなざしを投げかけ、高い視力で見渡すことではないか。

 

巨匠の陰に振り回されている気がする。

ジブリピクサー(?)*2の表現の影響(悪く言うと、質の悪い焼き回し)と感じられたシーンがちらほらあった。

思い出せるのは、過去のお母さんとお菓子や家の中のものを散らかすシーン。ジブリ…。

おこがましいにも程があるが、もっと自分だけの表現方法を考案されたら素晴らしいのにと感じてしまう。それとももうこの宮崎風の表現の仕方が定型化してるのか?

確実に私は観ていて、熱湯に差し水をするかのごとくサッと冷めた。

 

あと、男女問題について思いが及んでしまうのは、「未来のミライ」が男の子が主人公の物語だからだと思う。

監督と同性の主人公であるこの映画は、監督の考えがダイレクトに反映されるんだろう。

 

女の子(自分と違う性)が主人公なら、“こんな子がいいなぁ” だけど

男の子(自分と同性)が主人公だと、どこかで “自分だったらこうされたい” が入るのではないか。

 

宮崎駿監督の作品はほぼ女の子が主人公だが、こうまで男女問題を考えさせられたことはない。

 

今思ったけど、タイトルからして “女の子” は客寄せパンダなんだなあ。

くんちゃんの話なのにポスターもタイトルもキャッチーなミライちゃんが使われてる。

 

あと、宮崎監督はテーマが大きいのに対し、個人の心や機微を扱う細田監督の方があーだこーだ言われやすいのもあるかもしれない。

しかし個人の心を扱うにしても「インサイド・ヘッド」はなぜかテーマが大きく感じる。そして映画としてより完成されていた。

 

 

 

たぶん大きく評価される映画だと思う。おもしろかったけど…。という私みたいな気になり方をする人はどのくらいいるのか。

 

最後に。冒頭にも書きましたが個人の感想です。

そしてそんなにちゃんと観てないし記憶力もないのでうろ覚えの中書いています。

くんちゃんをとんちゃん、ゆっこをみっこと終始間違っていて慌てて訂正したほどです。

 

 

 

 

 

*1:パンツ見えましたか?私が気づかなかっただけかもしれないけど無かったと思う

*2:ディズニー?詳しくないのでわからないが大作アニメーション